仏像の林に佇む
2018年末、わたしは三十三間堂にいた。
それはそれは本当に久方ぶりに。冷え冷えとした空気の中、入り口でスリッパを借りて、長い長い本堂に足を踏み入れる。
何度見ても圧巻の光景。
これはある意味、日本の絶景のひとつなんじゃないか。
3mを超える丈六の中尊坐像を中心に、左右五百体ずつ、合わせて千体の千手観音がすっくと立ち並ぶ。仏像の林だ。
千の手と、眼を持つ観音が千体。
大きさがパワーを持つように、数にもパワーはある。
仏教伝来とともに日本人の生活感情に密着して育った観音信仰も、世が末法に入ると意識された平安時代から、一層切実の度を加え、限りない慈悲の力を求めて、十一面や如意輪、馬頭といった変化観音への信仰が盛んになった。
(出典:「三十三間堂の佛たち」)
そのなかでも、千手観音は"無限の救済力を発揮する絶対者"である蓮華王としてかなりの支持を得て信仰されていたわけで、やっぱりそれって数のパワーなんだろうと思う。そして、寺の名前にも冠されている通り、三十三という数はマジックナンバーであり、観音菩薩が衆生を救うために変化する姿の数を表す。
観音一体につき、三十三の化身…つまり、わたしの目に映る計体の観音は見えているままの数ではなく、実質三万三千三百三十の観音とイコール。
視界を、脳内が補完する。
観音が、増える音がする…!
想像せよ、観音フルな空間。
そして、三万の観音それぞれには、千の手、千の眼…
…救済ネットの手厚さよ!
災害、疫病、戦乱etc…現世も死後も不安だらけだった時代に、権力者含め、当時の人々は計り知れないパワー、救済力を求めずにはいられなかったということで。ど…どんだけ~!
人々の不安や、そこから生まれる願いが、観音をメタモルフォーゼさせていく。
観音は、その不安を受け入れて、メタモルフォーゼしていく。
視界いっぱいに広がった観音を前に、そんなイメージが立ち昇ってくる。
人間と観音は合わせ鏡のようなものかもしれないな、などと思う。
斜めの角度から覗き見る、果てしなさの光景
今回、本堂を歩いていて、千手観音立像×千体の無限感を、より感じられる鑑賞角度を発見。無限感増し増しの、よりヤバイ角度である。通常、本堂中央にある中尊の前に立って眺めるのがベーシックな見方かと思うが、それにプラスして試していただきたいのが、「斜め45度見」。正面から見るのではなく、列の斜めから隙間を覗くようなポジションで見てみると…
果てしなさ!それこそ、合わせ鏡を覗いたような感覚に近いかもしれない。そのまま観音がチューチュートレイン的なムーブをしたら、さぞ壮観だろうとも思う。
圧倒的ボリュームで空間を統べている観音。その整ったシンメトリーな空間に、リズムを刻むように配されているのが風神雷神と二十八部衆だ。豊かな表情や、指先にまで宿るダイナミズムに、思わず息を呑む。
そのなかでも、特にグッとくるのは、矜羯羅のような童子感と愛嬌のある五部浄居(旧 金色孔雀王像)と神母女(旧 摩和羅女像)。神母女の真摯な眼差しよ…。無著世親感あり、これぞ鎌倉リアリズム。誰をモデルにしたのだろうか。
慶派プロデュースの元、京都の院派・円派ほか近畿一円の仏師集団が一同に集められた一大プロジェクト for 時の権力者(後白河上皇)だったわけで、堂内に並ぶ仏像のクオリティは折り紙つき。時空を超えた国の宝のオンパレード。その一体一体の造形を味わうだけでも、贅沢な時間が過ごせるってもんだ。
平安に生きた人たちはもういないけれども、その人たちの祈りの形、願いの形は残っている。それを願いの抜け殻とするならば、羽化していったのは、なんだったのだろう。圧倒的量感の仏像を前に、そんなことをぼんやり考えた。嗚呼、京都の冬。